慣性の法則  本性は欲望に歪められる


 輪廻転生 「愚かさを繰り返す」、 別解脱 智慧の自覚によって愚かさを繰り返さない (『曹洞宗のお経の本』)
 慣性の法則 痛みを感じなければ腫瘍になり、ほっておけば癌になる。歯も神経を抜くと腐りやすくなるらしい。
 行いをすれば結果が生まれる
 よい行いAをすればよい結果Aになる
 よい行いBをすればよい結果Bになる
 よい行い100をすればよい結果100が生まれる
 よい行い200をすればよい結果200が生まれる
 よい行いAをすれば形を変えてよい結果Bになることがある
 でもよい行い100をして、よい結果200が生まれることはない
 質量保存の法則 環境問題と同じで、奉仕とか努力は絶対量の問題である。その物理原則を壊すのは人間の観念。「ある一つの事が出来ないと、すべての事はパーになってしまうの」。どこの宗教団体でもそう言う。ある一つの事が出来なくてもそれ以外のことが出来たのなら、それに応じた果報がある、と考えるのが普通だけど、そう言ってしまうとその人は留まってくれない不安がある。環境問題で考えるのなら、ある一つの事が出来なくて地球が滅んでしまったら、たしかに地球を守るという大局的な目的はパーになっている。でもやった分だけの果報はある。たとえば少しでも農薬を撒かなかったのなら、その土壌の細菌類や虫などは、その分苦しまないで済んでいる。
 因果は幾何的物理的なものであると考えるのなら、同じベクトル内のスカラー定義内において有効。たとえば罪もない子が電車に轢かれるのを見て「神も仏もいない」「因果応報は誤りである」とするのは誤りである。電車に轢かれるという現象は、純幾何学的には電車が動くことに因果しているわけで、罪には結び付けられない。かわいいからあの世に呼ばれたとか、日本のカルマとか誰かの恨みの想念が事故を呼び込んだ、という迂回間接的な因縁なら考えられるが。事故で生じた鉄道会社の罪の処理は、deitiesの仕事。子の親が泣こうが、その悲しみは霊導を生むも、その悲しみの因は、子供を失ったことなのだから、悲しみを乗り越えるには子供を供養するか忘れるしかない。忘れても根本解決にはならないから結局は供養することになる。
 また、たとえばボクシングの選手が血のにじむ努力をしたのにチャンプになれなかった。だから因果応報など存在しないのだ。というのも誤りである。身体を鍛えることの果報は身体が強くなることであり、ボクシングの練習をしたときの果報はボクシングが上達することである。その果が因となり「試合に勝つ」というよい結果Bにつながることはあっても、それは未成年で喫煙をしたら警察に補導されるといった連想のように、間接的な因果応報である。直接的には未成年で喫煙をすれば線条体の発育に障害がもたらされ無感症や陰気になりやすいといった連鎖になる。世界チャンプ以外は努力が実らなかったといって因果応報が信ずるに値しない事ということにはならない。(意識が関与すると実感しやすい。筋トレは苦痛だけど、その苦痛から逃げるような筋トレの仕方では同じ運動量でも体力の付き方は大きく違ってくる。鍛える肉体にたいして意識的に鍛えてやったほうが、余計に苦しいけれど、苦しみにたいしてリニアに効果が現れる。一方、そこで苦しみの性質が非人間的なものであると逆に崩壊する。これも事実である。苦しいから効果がある、と考えてその性質を無視していては 非人間的になった時に後悔する。この世はアナログである。常にその性質が寄与している。努力には方向性の善し悪しも考慮に入れたい)。
 EURO方面では10代の喫煙が社会問題で深刻化しているようだ。最近の研究で、10代の喫煙で「線条体」の発育に障害がもたらされているとの事実が判明した。非喫煙者の少年グループと喫煙者の少年グループにわけて、パネルを見せて、「○か×か当てられたら、あめ玉をあげるねー」とやってみたところ、非喫煙者の少年は脳波の反応が大きく、喫煙者の少年はまったく反応をしなかったらしい。(テキトーな書き方なので詳細知りたければ検索:URL)。線条体が育たないとは、「喜びが育たない」ことを意味する。感度が鈍くて退屈するから犯罪とかスリリングな行為に走りやすい。不良少年は危険な遊びをするが「度胸がある」わけではなく「なんにも感じない」のだ。愛情が欠落すれば虐待をも誘発する。社会の悪循環になる。
 スーパー雑草が蔓延るようになったのは因果応報
 

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