世界は心の映し絵



 因果=心と行為の縁起。物事の現象が成り立つのは諸条件の調和による。それを<縁起>という。
 因果応報 = 善悪業は必ずそれに応じた苦楽の報果をもたらす。
 「因果応報」は往々にして時系列が長すぎて納得するのが難しくとも、「自業自得」なら経験から理解する事ができるのではないかと思う。 (無秩序な現象も多いけれど)業と心の状態は相対するもの。因果の法則を信じてなくとも心がけがよければそのとおりの人生になるはず(善悪の定義は難しいけど。おせっかいという惡因縁もあるし)。倫理をないがしろにして、たとえば友人に借りたお金を踏み倒したりして、ないがしろな人生になる事も多い。努力して清い魂を維持すればその一生は喜ばしいが、汚れた発想を身につけて放置していては苦しい。目が曇れば遠くまで即座に見渡すことができなくなる。それに応じて自然と目先の利益ばかり求めるようにもなる。生活苦しいからお金を借りてパチンコに投資して勝てば借金返済だけど(それに充てるとも限らないが)負けて返せず別の県に移住する派遣社員も身近にいた。しかし因果は必ず返ってくる。又は返ってきている。普段から美味いものかばかり喰っている人は断食が出来ない。普段から口しか出さない人は腹が出る。若いうちに日光に焼きまくると、ある年齢を過ぎた辺りから急にシミが表面化してくる。そのように精神も十年〜二十年後の自分の姿形に出てくる。欲望を生じ、早食いのように手に入れるのみならば動物的に単純であるが、人間は寿命が長いし知能も高いのでなかなかそうはやすやす終わってくれない。過程に生じた打算や想念、あるいは心に描いた美しいストーリーは時間をおいて顕在化する。もちろん欲望を昇華すれば愛が深まるなど、良い因果もある。
 業と心の状態が相対化する例:神仏の崇敬を罵った生き方をすると自身が精神科に通う羽目になる。その可能性が上がる。物理や数学を専門にやっている人は統合失調症になりやすいらしいが、それが直接の原因ではないだろう。知能主義の人間は自分が病気扱いされると異様な反応をする。自分が他人を病気の典型にはめて自己愛を満足させているそのやり方が一層気に食わないからだろう。(ただ、物理厨には妄想性人格障害が多い一方で、宗教患者には自己愛性人格障害が多い。その裏返しの因果応報が往還しているのかもしれない)。被害者意識の強い人は勝手に加害者を作り上げている。加速した妄念と強い感情がそうさせる。(でもなぜ被害者意識が強くなるのか、それは親や学校に原因があるかもしれない。何が罪になっているのかはわからないので負の連鎖を止めるには反省することも必要)。人を拡大解釈してあげつらう者は、自分の被害妄想のときに大変なことになる。ひょっとこのように赤面でまくし立てる人はその反面批判に弱い。他者批判的な人ほど自意識過剰に陥っている。ゲスいうわさ話を垂れ流す人は自宅のシャッターを閉めなくてはならなくなる。目くじらを立ててしまう人ほど人間の目の恐ろしさを知っているのであろう。集団で虚勢を張る者は一人の時にキョドっている。自分が守っているけれど人が守っていないルールに対しては責任追及(責任追及のための責任追及)をし、他人が守り自分が守っていないルールに対しては真面目君だと見下ろす。その種の都合のよさは弱さの裏返しだろうか。貧乏自慢する人は金持ち自慢もしはじめる。嫌味を言う人は、相手の嫌味を嫌味だと結論づける確固たる証拠を自分の精神のうちに見出す。人の過去を追求する人は裏を返せば自分の過去に弱点がある。夢を追い求めれば心は輝き、それが仇夢ならば挫いたときに腐心する。知的巨人はさまざまな学問の統一化・体系化を試み、内容の片寄る者は盲信に陥る。学への情念の擦り切れた人は食べることすら忘れて励む人を偏執者だと罵る。一方的に済めばよい。人に苦笑いを求めれば自分が晒すことになり、酒やタバコを唆す人は自分自身に唆される。霊的に威嚇すれば、己が結界を張らなくてはならなくなる。人に自己愛性人格のような欺瞞的な自己正当、痛烈な皮肉、灰色の厭世観を浴びせると、その特有の言い回しを相手は覚えて、そのまんまブーメランして返ってくる。その頃には投げたことを忘れているから不意打ちのダメージをウケるのである、失礼、受けるのである。自身の言動を覚えていれば反省できる分よい。矯正されるから。傘を平気で盗む人は何かが盗まれることを気にしているし、電車でパンチラを見つけたら携帯で撮影しよう‥と思っていれば自分自身も誰かに監視されているという発想が相対化してくる。得すれば同じく損する。人に尽くせば尽くされて、悪行を積めばヴィカルマを負う。子供を愛すユーモリストはよい親の元に生まれ 餓鬼道に陥った者は飢餓地帯に生まれ 同性愛を蔑むカトリックの信者は来世は同性愛者として生まれる…とまでいくと確証はつかないが(おみくじはなぜか連続しますが)、少なくとも思考は現実化する。
 悪口の何がいけないか。高須幹弥先生によると脳は主語と述語の関係を明確に保持できてないようだ。だから悪口を言うと述語だけ浮遊してブーメランしてくる。その悪口を聞いた人もそう思う。繰り返し発言されて増幅された想念が脳内を浮遊して自分が言われていると思うようになる。サイコパスの人が精神不安定なのは行為以外にも言葉の因果応報もあるかもしれない。言葉にはニューロンの結合が多少あるが、念はもっと不分明。人を呪えば穴二つ。
 人間は内側にあるものしか見えない。文才のない人は「言葉だけの人間が多い」と言い、霊感のない人は「平気で人をだます」と言う (たしかに現代にはインチキの方が多いが。…どのみち毀損すれば相手が聖/邪のどちら側についているにせよ報いを受ける。神の信頼を失ったり魔の呪いを受けたり)。自分には、人のわかっていないことは見えても自分がわかっていないことは見えない。何にどう反応するかが心の裏返しでもある。どの記事に、どんなサイトに自身は引き寄せられるか、自照すれば自分がわかる。批評すれば表出する。周囲は自分の映し鏡である。謙虚な者にはサタニズムが虚悪にしか映らなかったり、卑屈な者にはボランティアが友達の結婚式で涙を流すような人がやってる風にしか映らなかったり。人間いろいろ。もし神様が美しいものであるのなら、美しい心をしていなければ感応しない。神様のみでなく、人の想いもまた同じで、似たもの同士でしか集まらない現状をみると、音楽とか詩情を味わうことは、縁も重要に思えてくる。
 人は、何かをこき下ろす時には自身は完全なる何かになっているが、その最中にこそ鏡を見ないといけない。スマホが消えて黒画面になれば鏡になるけど、そのときの自分の顔つきはどうなってるだろうか?伝統宗教は霊性を正常化させる。DNA分子の損傷は1日1細胞あたり最大50万回程度発生する。がん細胞も一日に5000個も出来る。しかし反省によって修正される側面がある。痛みとか苦しみを感じることも重要。麻痺していたら異変に気づきづらくなる。

今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世を知らず善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理 歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る。(修証義)
因果応報にもいろいろとある。「信仰に裏付けられた因果応報は人間の願望が生み出す幻にすぎない」と言う人間があるが、お互いに忘れていても自動的に因果応報を実現してゆくケースもある。

そのケース↓
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本当にあった怖い名無し:2012/06/13(水) 22:19:26.64
先日同級生が私の家を訪ねてきたんです。なんでもその同級生の家に私がいてずっと睨んでいたり、寝ていたら首をしめてきたりと なんか凄いことをしてるらしいんです。原因というかその同級生は中学生の時に集団で私を苛めていたらしく、そのことを私がまだ恨んでいるに違いないと思って、私に許してくれるように謝りに来たみたいです。
昔の事だし気にしていないよって言ってその日は同級生に帰ってもらったんですが、一向に私の生霊は消えないとまた訪ねてきました。
一つ同級生に言ってないことがあるんですが 正直私は中学生活をほぼ覚えていないんです。記憶喪失という訳ではないと思うのですが、なんか思い出せません。私が何について許すのかちゃんと認識していないと生霊って消えないんですかね?なんか同級生にからかわれてるだけかもしれないけどもし本当ならなんとかしてあげたいです。それとも同級生は統合失調か何かなんですかね?
「善因楽果」 善行は、たとえ幹部はビジネスでやっているにしても、信者は馬鹿だと言われるように純粋なので、自分自身の成長のために、または神様仏様のために無私にやっている。 
 宗教では日常から神仏にかかわり些細な出来事からも反省したり喜んだりする生活に入るので、行動には結びつきやすいが、そうでなくとも路線に落ちた子供とか川で溺れている人が眼前にリアルでいたら、本能(生物学的には今はもっと難儀な用語を使いたがるが、小学生的な意味用法で結構)で助けようとする。そのときには恥ずかしいなどとは思っていないはず。そんなDNA的な根源的希求に基づいて善行は行われている。善は本能のうちにある。cf. NK細胞アポトーシス
 しかしその人が生来の聖人君子ならば教えられなくとも出来るが(音樂と同じ)、そうでない人がほとんどで、どちらかというと人は惡に引き寄せられるので(努力より快楽が優先されるし)、宗教とか信念があったほうが人は(平均的に見れば)善良になる。浄土真宗には「如来ほどの高度な仏様になると人間や修行僧程度が行う小さな善根を嫌う」という教えがあるが、それも一理ある。苦しみの根本である煩悩にかかずらわず、如来に包まれ霊性を涵養して生きれば思想も行動も善良になるし努力すれば進化もする。要は魂が成長すれば良いのであって、方法はどうでもいい。魂の形状が自我心で歪んでいたり、霊性が希薄化している現代人の有り様を改善・淨化出来ればよいのである。魂は善なるものに向かいたがっている。魂の希求を恥ずかしがらず素直に受け入れられるかどうかにかかってる。



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