世界は心の映し絵



 因果=心と行為の縁起。物事の現象が成り立つのは諸条件の調和による。それを<縁起>という。
 因果応報 = 善悪業は必ずそれに応じた苦楽の報果をもたらす。
 『曹洞宗のお経の本』より
因果応報は霊的な仕組みも含むと思うけれど※1、脳みそのレベルで見れば「主語」と「述語」が分離保存されることに理由のほとんどが集約されると思う。
具体例は下の欄にくどいぐらいに書いたけど、たとえば悪口を言えば自分にブーメランする。それはかなり間接的に。

あのひとは」――「こうである

はじめのうちはニューロンで結合している。結合している間は良い。だが・・・。

脳みそにはニューロンが足りてないのである。

「あのひと」を自分より下に定義する「こうである」を繰り返すと、「こうである」の思考の塊が肥大する。そこまではよい。その塊はやがて「あのひと」から乖離する。そのあとで他人に「あなたは」――「こうである」と定義(ニューロンを再結合)されると、それはもう耐え難い。脳内にある「こうである」の威力が絶大すぎて。そう言われて平気な人と耐え難い人の違いはそこにある。「あのひとが」――「こう言ってましたよ」も同様。
ヤクザは強そうに見えるけど自分にたいする攻撃には弱いと言われる。その理由のほとんどは、攻撃性が主語から乖離しているからだろう。攻撃されるから攻撃しないといけない。そのループ。(悪因苦果)

因果応報の仕組みはわかった。でも自分は切り抜きとかレッテルを貼られたくないし、どうせなら良い人とばかり交流したい…と思うだろう。普通の人は。自分のレベルにあった大学なり会社なりに進んで自分の遺伝子にあった人と結婚できたら幸せだ。神様仏様も必要ないだろう。むこうも力を与えようとはしない。足りてるでしょ?となる。そんな運の良い人は過去世が良かったか、今世では楽したかった人だろう。慰みにはならないかもしれないが世の中には神に試練を乞う者もいる。求道者として生を享けた人。自分はそんな高邁ではないけど苦しみの多い人生を送ってきたので、普通の人生を送っても得られない世情の法則を得ることができた。たとえば噂話から本当の部分のみを抽出できます。あとその噂話を流している張本人の生い立ちや思考回路のあぶり出しも。性質の悪い人間を見て、毒づいて分析しているだけでは修行にはならないけれど、褒めがたいものを褒めたり、彼らのことを理解して祈りの精神で接する事は陰徳や修行になる。彼らも性質が悪いだけであって人間としての存在価値はある。そこを認めてもらいたいのかもしれない。どうせ三つ子の魂百までだし、既にそうなってしまったものは非難しようとせず、足るを知って些細なことに喜べるようになれば善因楽果だ。

あらゆるベクトルで多角的に価値判定すると、人間もオーディオもはあちらを立てればこちらが立たずになる。学歴や年収は高いけど人間性が落ちた人はたくさんいる。若干、反比例する。地位が上がれば勘違いが生じて権威的になるし(心理学によると「自分は重要な人物だからスピード違反も許される」と錯覚するらしい)、驕慢に入って他人を操作するようになる。お金があれば楽できるし。そうなると霊格は上がらない。そのようなものを諦観して孔雀明王のように咀嚼すれば霊格は上がる。偉いことを言っても上がらない。筋トレは苦しみ抜かないと効果が薄いし、断食も空腹を感じることがサーチュイン遺伝子を活動させるなどして高い効果が出るのと同様。(霊格は神社仏閣の拝殿で判定してゆく。その神社仏閣の霊格が低いと駄目だけど、自分よりは高いからたいてい正確だと思う)。逆に、心のこもった悪口を言っていて霊格が上がるなんてことはない。そんな人がいたら手本にしたいわ。
※1=たとえば仏教で言う「ご縁」は、量子コンピュータ―で有名になった「量子もつれ」に類似。探せば他にもあるけど省略。
 「因果応報」は往々にして時系列が長すぎて納得するのが難しい。宗教的な願望扱いになる。でも因果応報のうち「自業自得」なら経験から理解しやすい。(無秩序な現象も多いけれど)業と心の状態は相対する。因果応報を信じてなくとも関係ない。倫理をないがしろにして目が曇れば遠くまで即座に見渡すことができなくなる。メタ思考が効かず株で負ける。パチンコに投資して勝てば借金返済だけど(それに充てるとも限らないが)負けて返せず別の県に移住する派遣社員がいた。その後日談(因果応報)が耳に入らないのが面白くないが、普段から美味いものかばかり喰っている人は断食が出来ないし、普段から口しか出さない人は腹が出るし、若いうちに日光に焼きまくると40代辺りから急にシミが表面化してくるし、そのように精神も10年〜20年後の自分の姿形に出てくるから、だいたい予測のとおりだろう。人間は寿命が長いし知能も高いのでなかなかそうはやすやす終わってはくれない。反対に心安らかな打算のない良い人生を送っていたら普通の人より努力をしたのだろう。ヤクザも仏道に進めば(まずないけど)、一般の人が仏道に進むより遥かに仏様からの評価が高くなる。その因縁を覆す努力は並大抵のものではないから。

 業と心の状態が相対化する例:神仏の崇敬を罵った生き方をすると自身が精神科に通う羽目になる。その可能性が上がる。物理や数学を専門にやっている人は統合失調症になりやすいらしいが、それが直接の原因ではないだろう。知能主義の人間は自分が病気扱いされると異様な反応をする。自分が他人を病気の典型にはめて自己愛を満足させているそのやり方が一層気に食わないからだろう。(ただ、物理厨には妄想性人格障害が多い一方で、宗教患者には自己愛性人格障害が多い。その裏返しの因果応報が往還しているのかもしれない)。被害者意識の強い人は勝手に加害者を作り上げている。これも述語が独り歩きしている。(でもなぜ被害者意識が強くなるのか、それは親や学校に原因があるかもしれない。記憶は遺伝するから先祖の因縁かもしれない。因縁=原因と結果)。ゲスい噂話が好きだったり人を拡大解釈してあげつらう者は、自分の被害妄想のときには大変なことになる。自宅のシャッターを閉めなくてはならなくなる。ひょっとこのように赤面でまくし立てる人はその反面批判に弱い。目くじらを立ててしまう人ほど人間の目の恐ろしさを知っている。自分が守っているけれど、人が守っていないルールに対しては責任追及(責任追及のための責任追及)、でありながら他人が守り自分が守っていないルールに対しては真面目君だと見下ろす。矛盾が多い。貧乏自慢する人は金持ち自慢もしはじめる。嫌味を言う人は、相手の嫌味を嫌味だと結論づける確固たる証拠を自分の精神のうちに見出す。他責的な人は陰謀論にハマる。芸能人の醜聞を好むことを見抜かれたら人は離れる。人の過去を追求する人は裏を返せば自分の過去に弱点がある。夢を追い求めれば心は輝き、それが仇夢ならば挫いたときに腐心する。学への情念の擦り切れた人は食べることすら忘れて励む人を偏執者だと罵る。人に苦笑いを求めれば自分が晒すことになり、酒やタバコを唆す人は自分自身に唆される。他人のことをよく携帯で撮影する人は、自分自身も撮影されていわれもないことをSNSに投稿されるという発想が相対化してくる。宗教信者に多いが他人を霊的に威嚇すれば、己が結界を張らなくてはならなくなる。他人にどす黒い皮肉を浴びせたり、魑魅魍魎である自分のレベルに道連れする厭世観を浴びせると、その特有の言い回しを相手は覚えて、そのままブーメランして返ってくる。その頃には投げたことを忘れているから不意打ちのダメージをウケるのである。失礼、受けるのである。自身の言動を覚えていれば反省できる。歯から神経を抜くと腐るまでに時間がかからないらしい。反省は重要。
 人間は内側にあるものしか見えない。文才のない人は「言葉だけの人間が多い」と言い、霊感のない人は「平気で人をだます」と言う。人間は、人のわかっていないことは見えても自分がわかっていないことはまるで見えない。たとえばクラシックはわかります?何にどう反応するかが心の裏返しでもある。どんな社会問題に・どんな音楽に自身は引き寄せられるか自照すれば自分がわかる。批評すれば表出する。周囲は心の映し鏡である。謙虚な者にはサタニズムが虚悪にしか映らなかったり、卑屈な者にはボランティアが 友達の結婚式で涙を流すような人がやってる風にしか映らなかったり。もし神様のパワーが清らかで気持ちのよいものであるのなら、心がそれを志していなければ感応しない。日常の想念もまた同じで、想念の似たもの同士でしか集まらない現状をみると、縁も重要に思えてくる。
 因果応報は脳内のみでなく来世まで跨ぐ場合もあると思う。神を信じず、冒涜する者は、地獄に落ちて永遠の裁きを受ける。聖書では「神を否定し続ける者は最後の審判で神の国に入れず、永遠の滅びに至る」と述べられています(黙示録 20:15)。…と熱烈に説いている人はあとで神様に「あなたは印象が悪くて信仰者どころかアンチを増やしたので査定が低いです、神の国にはまだ入れません」と言われて現世に落ちて人生をやり直すことに。たぶん過去世の自分の述語に裁かれる地獄のような人生を歩むことになる。原理主義の人みたいに「輪廻転生など存在しない!」と叫んでも万物は流転するから神の国に入れなければ霊体は別のなにかになってるでしょ。同性愛を蔑むカトリックの信者は来世に自分自身が同性愛者として生まれる可能性もあるし、貧乏人を馬鹿にして自分は来世もまた金持ちに生まれるなんて都合の良いことはないだろう。(来世なんてオカルトくさくて嫌いだが。でもあのひろゆきも霊性の存在は一概には否定していないんですよね。自分は毎日ですけど)。
 人は、何かをこき下ろす時には自身は完全なる何かになっているが、その最中にこそ鏡を見ないといけない。スマホが消えて黒画面になれば鏡になるけど、そのときの自分の顔つきはどうなってるだろうか?伝統宗教は霊性を正常化させる。DNA分子の損傷は1日1細胞あたり最大50万回程度発生する。がん細胞も一日に5000個も出来る。しかし反省によって修正される側面がある。cf. NK細胞アポトーシス

今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世を知らず善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理 歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る。(修証義)
因果応報にもいろいろとある。「信仰に裏付けられた因果応報は人間の願望が生み出す幻にすぎない」と言う人間があるが、お互いに忘れていても自動的に因果応報が実現されてゆくケースもある。

そのケース↓

本当にあった怖い名無し:2012/06/13(水) 22:19:26.64
先日同級生が私の家を訪ねてきたんです。なんでもその同級生の家に私がいてずっと睨んでいたり、寝ていたら首をしめてきたりと なんか凄いことをしてるらしいんです。原因というかその同級生は中学生の時に集団で私を苛めていたらしく、そのことを私がまだ恨んでいるに違いないと思って、私に許してくれるように謝りに来たみたいです。
昔の事だし気にしていないよって言ってその日は同級生に帰ってもらったんですが、一向に私の生霊は消えないとまた訪ねてきました。
一つ同級生に言ってないことがあるんですが 正直私は中学生活をほぼ覚えていないんです。記憶喪失という訳ではないと思うのですが、なんか思い出せません。私が何について許すのかちゃんと認識していないと生霊って消えないんですかね?なんか同級生にからかわれてるだけかもしれないけどもし本当ならなんとかしてあげたいです。それとも同級生は統合失調か何かなんですかね?
「善因楽果」 善行は、たとえ幹部はビジネスでやっているにしても、信者は馬鹿だと言われるように純粋なので、自分自身の成長のために、または神様仏様のために無私にやっている。 
 路線に落ちた子供とか川で溺れている人が眼前にリアルでいたら、本能的に助けようとする。そのときには恥ずかしいなどとは思っていない。遺伝子には利他的な側面がある。DNAの根源的希求に基づいて善行は行われている。もちろんサイコパスのようにそれが具わっていない人も数%いる。それは理解しています。
 しかしそこまではいかない日常の思いだとか相手を好きになる努力だとか善行は、その人が生来の聖人君子ならば教えられなくとも出来るが(音樂と同じ)、そうでない人がほとんどで、どちらかというと人は惡に引き寄せられるので(努力より快楽が優先されるし)、意識して行わないとならないし、ストレッチとかヨガなど肉体的な補修も継続しなくてはならない(スクワットをするとメンタルが改善する)。浄土真宗には「如来ほどの高度な仏様になると人間や修行僧程度が行う小さな善根を嫌う」という教えがあるが、それとこれは別。方向性の違い。浄土宗/浄土真宗は念仏を唱え続けて阿弥陀に感応して毎日魂の性質を修正してゆく。苦しみの根本である煩悩にかかずらわず、如来に包まれ霊性を涵養する。本堂で念仏唱えて寝てれば仏様の霊性に包まれて自分自身がだいぶとそのようになるのではないか。そこまでいくと他力本願すぎるか。禅宗と浄土真宗で因果応報のニュアンスも少し違う。禅宗は自分で修行して進化していきたい価値観。どちらであれ結果的に魂が成長すれば良いのであって、方法はどうでもいい。
修証義(曹洞宗)の因果応報
「今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世を知らず善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理 歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る。豪釐(ごうり)もたがわざるなり。」
人の悪口も呪いの念も造悪。それは格納容器から外に漏れて御霊が聴いているから音叉して人に伝わる。
類語
「自縄自縛」
「自業自縛」
「因果歴然」
「身から出た錆」



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