仏になりきって 仏としてただひたすら坐る |
くわしくは |
「自由自在」とは自分の由来と自分の在り方。 因果応報・・・結果には原因がある。 禅定では身体を静止する。心が動くから身体が動くのだが、心を定めれば動かない。 また八正道には正しい判断、正しい努力、正しい思念 などがある。 自分がほんとうに正しい自分であるならば、何物にも動じない。相手が虎であろうと悪霊であろうと。何を吠えていようが何をしていようが。餓鬼は餓鬼だから喚くのであり、それに惑わされるのは自分らしさに不備があるからだろう(自由自在でない)。何物にも動じない自分というものを手に入れたのなら、一般的な悟りの道の半分弱にはきているだろう。(不動心) 自分がその他大勢にならないためには、自分自身にたいする執着を離れるということ。自分が世界を受け入れれば、世界に受け入れられる。 馬鹿の壁・・・自分は自分だが君も君であり、君にとって自分は自分だ。 正しいとは思い込みではあるがしかし現実には心の在り方に問題のある者ほど自分にのみ都合のよい考えに縛られているもの。その考えは自分には心地よくても人には気持ち良くない、普遍的でない論理によるものだ。やがてそれの崩壊することを恐れ、固執し、そうでなければならないとなる。それは自由自在でない。 |
臨済宗では坐禅と同時に公案を与えて工夫させる。 曹洞宗では焼香・礼拝・念仏・看経・公案を拝してひたすら坐禅に打ち込む。(只管打坐) 家でやるよりどうせなら坐禅会へ行ってやるほうがいい。 |